「私の論文」

No.10
熊崎茂一(京都大学大学院理学研究科)

 このような企画に投稿するには力不足で未熟な私ですが、退職するまでずっと自分を未熟と言っている気もします。私の投稿をひとつのきっかけに、多くの方がこの企画に気軽に投稿するのに役立つ可能性もあれば、と思い、最近の論文の出版に至るまでの経緯と内容を紹介させていただきます。

 様々な幸運が重なって2003年に京都大学(理学研究科化学専攻光物理化学分科、寺嶋正秀教授)に助教授の職を得た後、本格的に顕微分光の研究に取り組めるようになったのは、寺嶋教授が私を無理に拘束しなかった寛大な措置に加えて、特定領域研究「分子系の極微構造反応の計測とダイナミクス」(2004 - 06年度、代表:増原宏教授 現在 台湾交通大学および奈良先端科学技術大学院大学)および「分子高次系機能解明のための分子科学」(2007 – 2011年度, 代表:藤井正明教授 東京工業大学)の班員にいれてもらったおかげだと言えます。最初の特定領域研究が極微の世界の反応に取り組むという課題でしたので、ごく自然に葉緑体やシアノバクテリアを扱ってみたいと思いました。それ以前は顕微鏡を用いた研究も細胞を直接扱う研究も未経験であった私は、その時点で既に顕微分光に取り組んでいた名古屋大学の伊藤繁教授と大学院生の杉浦花菜さんを訪ねました。そこで親切に紹介していただいたのが、窒素欠乏下の糸状シアノバクテリアで細胞分化により生じるヘテロシストの問題でした。窒素固定をするために栄養細胞からヘテロシスト細胞が分化するわけですが、この時のチラコイド膜に進行する生理的変化(主に光化学系IIとその光捕集系フィコビリゾームの消失)を正確に捉えるには顕微分光が非常に適した研究手段であるということを教えていただきました。それを参考にしつつも別の研究テーマを探そうと思いました。また細胞の取り扱い方法については当時帝京大学でお勤めされていた池上勇教授や大阪大学の大岡宏造准教授に、初歩的なことを教えていただきました。

 それからヘテロシストの研究を本格的に開始する2010年までの間にいくつかのことが有りました。上記の特定領域の予算を活かしてライン走査型2光子励起蛍光スペクトル顕微鏡を開発しました。(Kumazaki et al., 2007, Journal of Microscopy, DOI: 10.1111/j.1365-2818.2007.01835.x および 分光研究 第60巻 第1号)。現時点で考え直すとそれが最善の設計であったとは思わないのですが、ほどほどの努力で完成させられる範囲では一つの妥協点であったと思います。全ての画素で波長分解能2nm程度の蛍光スペクトルを500-750nmの範囲で得ながら、比較的高速に画像化できる装置です。そして、その装置を使って植物の葉緑体を調べる中から得られたアンチストークス蛍光を利用した常温光化学系I蛍光の画像化法を見出しました(Hasegawa et al. 2010 Plant Cell Physiol.)。植物(最初はタバコ)をライン走査顕微鏡で調べていた大学院生の長谷川慎さんと私は、「常温の葉緑体の蛍光スペクトルはほとんど光化学系IIの蛍光で占められており、系Iの蛍光はわずかしか見えない」という常識とはやや異なる蛍光スペクトルの特徴を得ていました。2光子励起ライン走査蛍光スペクトル顕微鏡で見る限り、どう見ても系Iの蛍光スペクトルが見えているとしか思えなかったのです。それは2光子励起に用いるパルスレーザーの波長が短いほど顕著でした。特に、長谷川さんが「系I蛍光のように見えているものが単純な散乱に起因するのではないか」という疑いを持ってパルスレーザーの発振を連続発振に切り替えてみたのですが、系I蛍光らしい信号は残りました。共著者の椎名隆教授(京都府立大)の助言により、系I蛍光であることを明確に確認するためにC4植物の維管束鞘細胞と葉肉細胞の葉緑体の蛍光スペクトルを比べてみようということになりました。結局、葉の横断面をきれいに作成する方法を信州大学の野末はつみ博士に教えてもらうことで、維管束鞘細胞の葉緑体も確実にみられるようになり、「2光子励起を起こしにくい785 – 820 nmの連続発振光を用いて励起すると光化学系I由来の常温蛍光(アンチストークス蛍光)を見ることができる」「2光子励起を起こしやすい800-820nmのパルスレーザーにおいても中間状態での共鳴効果あるいは1光子励起の混入により系I由来の蛍光が見える」という結論に至りました。このアンチストークス蛍光は緑藻(クロレラ)の場合でも観測できましたが、その場合の系I蛍光の極大波長は植物に比べて明確に短波長にシフトしており、両者の極大波長の長短関係は77Kなどの低温系I蛍光の極大波長との間に相関がありました (Hasegawa et al. 2011 J. Phys. Chem. B. および、生物物理(2011)Vol. 51(6), 274-275)。前者の論文では、アセトンの混じった培養液を意図的に用いて葉緑体を10時間程度の時間内で変性させるという、生物をなるべく生理的な条件で観察しようとする立場からみれば常識外れな実験も行って詳細に報告しています。そこで見られた複雑なスペクトル変化の解析経験を通じて、大量の蛍光スペクトルを網羅的に解析する良い経験ができました。

 それらの経験を通じて、数年間気になっていながら手を付けていなかったヘテロシストの問題に真正面から取り組み始めたのは、明里将司さんが修士課程に進学してくれた2010年の春頃でした。独自性の高い研究手段が揃ってきたので、その話題を紹介してくれた伊藤繁先生を始め数多くの研究者が取り組んでいても、他とは違う切り口で研究ができる良い時機だと考えました。論文に出したデータを得る現場の実験の全ては明里将司さんが行いました。窒素充足栄養培地から窒素栄養分を欠損した培地にAnabaena variabilisを植え継ぎ、適度な濃度でガラスボトムディッシュに滴下しました。約10個の細胞フィラメントを毎日決まった時間に顕微分光装置で調べました。実験装置を制御するソフトウェアや画像の中から細胞個々の輪郭を指定して単一細胞の蛍光スペクトルを計算するソフトウェアは、長谷川慎さんがかなり洗練させていましたので、ライン走査顕微鏡ができた当初よりは実験と解析の効率は高くなっていました。2光子励起(808 nmサブピコ秒パルスレーザー)と1光子励起(アンチストークス蛍光測定用785 nm連続発振レーザー)は全く異なる蛍光スペクトルを与えました。2光子励起では、フィコビリゾームの各成分の変化がよく見えましたが、系Iの蛍光強度の増減については不確定性が高い状況でした。フィコビリゾーム蛍光や系II蛍光の長波長側への広がりとそのスペクトルの不確定さが系Iのスペクトルを純粋に見積もることを妨げていたわけです。その問題を解決したのは、785nmの連続発振レーザーを用いるアンチストークス蛍光法で、シアノバクテリアでも確かに系I特有の蛍光スペクトルを示していました。フィコビリゾームや系IIが含まれている栄養細胞であっても系I蛍光スペクトルがほぼ純粋に観測され、そのスペクトル形状は成熟したヘテロシストから2光子励起で得られる系I蛍光スペクトルに良い一致を示しました。これによりスペクトル分解の信頼性が格段に向上しましたし、系Iだけの蛍光が見えることで系Iの細胞内濃度分布や時間変化の様相が直接見えてきました。

 熊崎の貢献部分は研究全体の計画、データ解析を進めるためのプログラム作成と論文執筆です。常温では低温に比べるとスペクトル分離が悪いのですが、ヘテロシスト形成が進行する最中のスペクトルには窒素充足時や成熟したヘテロシストとは異なる比率で蛍光成分が含まれているので、それらを取り入れることでスペクトル分解の信頼性は向上するはずです。単一細胞のスペクトルを様々な条件で合計1625個得ましたので、これらすべてを再現できる特異値分解スペクトルを5成分得ました。これら5個のスペクトルをフィコエリスロシアニン(PEC)、フィコシアニン(PC)、アロフィコシアニン(APC)と系II(PSII)、系I(PSI)という5個の蛍光成分スペクトルでglobal fittingしました。文献スペクトルや実測スペクトルを僅かに補正する自由度を与えて、global fitting通じて成分スペクトルを実験データに合わせるということもしています。こうして、PEC、PC、APC,PSII、PSIという5つの蛍光成分の時間変化が導き出されました。しかし、この結果は特異値分解やglobal fittingをする前の生の蛍光スペクトル変化を見てもある程度想像が付く程度のもので驚くほどの内容ではありませんが、査読者に安易な批判をさせる余地を与えない十分さではあったと思います。

 主要な主張の一つ目は「 ヘテロシスト化する細胞のチラコイド膜ではAPCとPSIIが最初に高い同時性で消失し、PCとPECの完全な消失には数十時間以上を要する。」このことに関しては、私たちの論文に半年程先行して出版されたSugiura K, Itoh S (2012) Plant Cell Physiology において、ヘテロシスト化の経時変化は観測されていないものの、APCとPSIIの蛍光強度比率がその他の成分間の比率に比べてより一定であるという主張がなされており、整合性のある結果となりました。一方、Ke. S, Haselkorn R. (2013) Microbiologyでは、ヘテロシスト分化の途上で系IIとAPCが切り離されることによりAPCの蛍光が一時的に増大すると報告されています。我々の場合は観察周期が長かったせいか、対応するような現象が観察されませんでした。彼らの研究ではAnabaena PCC7120が使用されており、励起光も561nmでしたから、808nm二光子励起を用いている我々と異なる側面が見える可能性はゼロではないのですが、興味深い結論の違いとなっており、追求すべき課題が残された形です。

 もう一つの主要な我々の主張は「アンチストークス蛍光を見る限り、ヘテロシストにおける系I蛍光強度は、画素あたりで栄養細胞と比べて変化が無い。細胞全体で見た系I絶対量はチラコイド膜の細胞内における広がりが縮小する程度の比率で減少する。」つまりヘテロシストになったからと言ってチラコイド膜の系I密度が上がることは無く、チラコイド膜がやや縮小していると考えると決して細胞当たりの量は増えておらず、栄養細胞の時の系I量が保たれているかやや減っているということになります。ヘテロシスト研究の論文の一部では細胞当たりの系I量が増えると書かれたものもあります。細胞分離に頼る限り、細胞数計測とタンパク質定量が正確に行われば正確な評価はできないのですが、私の調査不足か理解不足か、それほど決定的な証拠が揃っているとは思えませんでした。まだまだ多角的な検証は必要でしょうが。

 査読者の意見は3人から頂きました。うち2人にはうまく支持してもらえたようです。一人はまったく評価しないという調子でした。最初の投稿に対するこの査読者の主要な批判は ” This is a sound but rather descriptive paper……. Although the work is technically quite good, I think the study adds very little to what is already understood of heterocyst differentiation. The data provide some new quantitative detail in places, but I can't see any real qualitative advance in understanding.”私の現在の研究スタイルではこのような批判を浴びることはこれから何度もありそうで、頭が痛いところです。

 最後に、顕微分光を始める前の私は専らピコ秒、フェムト秒領域のレーザー時間分解分光をしていたのですが(分子科学研究所と吉原經太郎教授の研究室)、その頃には伊藤繁教授や池上勇教授から提供していただいた単離精製されたホウレンソウの光化学系Iが重要な研究対象でした。そういう光化学系Iとの関わりが、系II蛍光が支配的な常温チラコイド膜でもなんとか光化学系I蛍光を見る方法を開発しようという執念を与えてくれた気がしています。

2013.05.27 熊崎茂一